お陰様で「あとりえ 悠」は12年目、ブログも7年目になりました。みな様に心より感謝申し上げます。
忙しくステンドグラスを作る妻を見ていると、私には十余年前体調を崩して苦しんでいた頃の妻が遠い昔のように思えます。そして大勢の方々が妻を支え励ましてくれたことへの感謝の気持ちでいっぱいになります。感謝の気持ちを記憶と体力のあるうちに「生かされて紡ぐ『あとりえ 悠』の作品」というテーマでまとめてみようと思いました。
ご笑覧いただければ幸いです。
其の1
「パンジードーム」(1999年制作)
妻が若かった頃、
お向かいの奥様にステンドグラス教室を誘われました。
妻は相変わらず教員の仕事に夢中のまま。
それから、10年。
人はそうやって何もしないまま時間は過ぎるのよ、
とまた誘われ、
妻のステンドグラス作りが始まりました。
「ピオニー」(1998年制作)
当初ティファニーランプを作っていました。
私はその作品に全く興味がありませんでした。
世界中の人が同じ型紙で作品を作るなんて、
どんな意味が?
妻を理解しようとしない亭主の典型だったその頃の私。
(その頃…? まあ理解と言われると今でも自信はないねえ。)
行灯「藤」(2001年)
忙しい教員の仕事の合間に行灯「藤」を作りました。
驚きました。和風のステンドグラス、いいなあ。
初めてそう思いました。
この作品はユザワヤ創作大賞で銅賞でした。
長い間木目込み人形を教えている妻の母が、
受賞に驚きながらとても喜んでくれました。
妻はこの頃から、
日本の人々の好きなモチーフで、
日本家屋にあったステンドグラスを意識していました。
それから程なくして、
妻はステンドを作らなくなりました。
買い込んだ硝子も全部捨ててしまいたいと…
やりがいのある教員の仕事と引き取った母の介護。
その狭間で苦しみ、無理をして体調を崩してしまいました。
もう一度学校で子ども達とふれあいたい。
願いの叶わないまま退職。
妻の無念さを息づかいで感じながら、
私はその当時校長職で、自分の仕事優先。
妻が苦しんでいるのに、
肝心な事は何もできないままでした。
床を重く漂うような時間の中に妻をおいて、
私は仕事に出かけていました。
たまの休みに二人で、
遠くの山に行ったり旅行に行ったりすると
妻は元気が出ました。
山の中の木々をわたる風を感じると、
ここでは深呼吸ができる…
せせらぎにかかる木橋を渡ろうとすると、
人の手の入らないこの音がいい…
流れる水の心やさしいリズムを
ただ静かに聴きました。
自然はいいねえ…
ふっともれるつぶやき。
ふたりでうなずいていました。
「鷲のパネル」(2006年飛田邸)
私がどうする事もできないままのそんな時、
市内に転居してきていた中学校の同級生の飛田さんが
新たにお家を作ることになりました。
そして、妻は飛田さんからこんなことを言われたそうです。
我が家に悠子さんのステンドをいれたいの。
作ってくれたらだけど…
飛田さんによって、
もうできないと思っていたステンドに妻は向かい始めました。
2年に及ぶブランクの中での再びの歩みでした。
モチーフは飛田さんの長男の描いてくれた鷲。
私には鷲が今にも飛び出しそうに見えます。
妻はこの絵にも助けられたんだろうなあと思いました。
体調を壊して退職して、
もうステンドは作らないと言っていた妻が、
3枚のパネルを作り、お納めしました。
かつての同級生の言葉のぬくもりが、
妻の心をとかしてくれたと、
私は、今でも、何度でも、
思い出すのです。
(2019.1.19 記)