6月10日に兄(長兄)が亡くなった。
もう6年が経った。
目の前を何やらいろいろ通り過ぎていく中で、
兄のことを時おり強烈に思い出す。
兄のしてきたことを思い出す。
兄のしてくれたことを思い出す
子どもの頃、私の村の小学生は10数人だった。
高校生の兄は子どもたちみんなを山の分校まで連れて行き、
「知らないよその子どもたちとも一緒に遊べ。」と
小さな分校に泊まらせた。
照れながら、私たちは分校の子どもたちと川で遊んだ。
山奥の川の水のあまりの冷たさに驚き、
みんな、悲鳴をあげた。
悲鳴をあげながら、分校の子どもたちとうちとけていった。
遠い昔の夏の一コマがどうしてこんなに鮮烈によみがえるのだろうか。
思い出すといつも兄の顔も一緒だ。
「村に文化がない。人の暮らしには必要だべ!」と兄がよく言った。
どこにでもあるような我が家の作業小屋は特設の舞台会場になった。
舞台の上に掲げられた横断幕は「村の文化祭」だった。
村中の大人、子ども、年寄りが押しよせて、冬なのに熱気で暑苦しくなった。
兄の友達が何人も応援にかけつけ、兄を支えてくれたみたいだ。
兄も好きな落語を一席。
兄の紅潮した顔と上ずった声を思い出すと、
私は胸が熱くなる。
兄は田舎の農家の長男の宿命を背負いながら、
村をかえようと必死に生きた。
私は小さい頃から兄が大好きでくっついて歩きたかった。
その兄の生き方を少しでも学べたのだろうか。
何か少しでもできただろうか。
私は、とても、自信はない。
兄には世話になるばかりだった。
妻との結婚のときは、兄は夜行で上京し、
妻の父親に挨拶をしてくれた。
兄に会って、難しい顔の義父の表情が緩んだ。
そして、兄は来たその日の夜行でまた秋田に帰った。
結婚してからは毎年、妻と、
子どもができてからは家族みんなで
田舎に帰った。
「よく来てくれたねえ。えがった。えがった。」と
兄はいつも嬉しそうに迎えてくれた。
妻も兄と田舎が好きで毎年帰った。
その兄が亡くなった。
妻は兄を偲んで
この星空のドームをつくった。
兄にたくさんのことをしてもらったが、
私は何もできてない。
妻のこの作品ができて、
私は心の底から嬉しかった。
※作品をつくった妻の文章もよろしかったらご覧ください。
(2014.6.8 記)