「北斎の波のステンドグラス」(2017年制作)
人とともに生きることの喜び、時に悩み、苦しみ。幾重にも寄せるそんな波に身を浸して私たちは生きているのでしょうか。どうしようもない大きな迷いの渦に巻き込まれた時、一歩を踏み出す決断は、案外まわりの人の一言だったりするのかもしれません。今日も忙しくステンドグラスを作る妻を見ていると、十余年前体調を崩して苦しんでいたのは私には遠い昔のようであり、つい昨日のようでもあります。ただ今まで妻とかかわってくださった大勢の方々に、妻を支え励ましていただいたことへの感謝の気持ちだけはいつも変わらずいっぱいであふれそうになります。
感謝の気持ちを記憶と体力のあるうちに「生かされて紡ぐ『あとりえ 悠』の作品」としてまとめてみようと思いました。ご笑覧いただければ幸いです。
其の1
「パンジードーム」(1999年制作)
妻が若かった頃、
お向かいの奥様からステンドグラス教室に誘われました。
妻は相変わらず教員の仕事に夢中のまま…
それから、10年。
「人はそうやって何もしないまま時間は過ぎるのよ。」
また誘われて、
妻のステンドグラス作りが始まりました。
「ピオニー」(1998年制作)
当初妻はティファニーランプを作っていました。
私はその作品に全く興味がありませんでした。
世界中の人が同じ型紙で作品を作るなんて…
どんな意味が?
妻を理解しようとしない亭主の典型だったその頃の私。
(その頃…?
まあ理解と言われると、今でも自信はないのですが…)
行灯「藤」(2001年)
妻は忙しい教員の仕事の合間に行灯「藤」を作りました。
驚きました。和風のステンドグラス、いいなあ。
初めてそう思いました。
この作品はユザワヤ創作大賞で銅賞でした。
長い間「木目込み人形」を教えている妻の母が、
初出品の受賞に驚きながら、とても喜んでくれました。
妻はこの頃から、
日本人の好きなモチーフで、
日本家屋にあったステンドグラスを意識していました。
行灯「藤」(2001年)
それから程なくして、
妻はステンドを作らなくなりました。
買い込んだ硝子も全部捨ててしまいたいと…
やりがいのある教員の仕事と引き取った母の介護。
その狭間で苦しみ、
無理をして体調を崩してしまいました。
もう一度学校で子ども達とふれあいたい。
願いの叶わないまま退職。
妻の無念さを息づかいで感じながら、
私はその当時校長職で、自分の仕事優先。
妻が苦しんでいるのに、
肝心な事は何もできないままでした。
床を重く漂うような時間の中に妻をおいて、
私は仕事に出かけていました。
たまの休みに二人で、
遠くの山に行ったり旅行に行ったりすると、
妻は元気が出ました。
山の中の木々をわたる風を感じると、
ここでは深呼吸ができる…
せせらぎにかかる木橋を渡ろうとすると、
人の手の入らないこの音がいい…
流れる水の心やさしいリズムを、
ただ静かに聴きました。
自然はいいねえ…
ふっともれるつぶやき。
ふたりでうなずいていました。
「鷲のパネル」(2006年飛田邸)
私がどうする事もできないままのそんな時、
市内に転居してきていた中学校の同級生の飛田さんが
新たにお家を作ることになりました。
そして、妻は飛田さんからこんな事を言われたそうです。
「我が家に悠子さんのステンドをいれたいの。」
「作ってくれたらだけど…」
作りたい…作れるかしら…
思い悩む妻…
でも、ステンドに妻は向かい始めました。
2年に及ぶブランクの中での再びの歩みでした。
モチーフは飛田さんの長男の描いてくれた鷲。
今にも飛び出しそう鷲でした。
体調を壊して退職して、
もうステンドは作らないと言っていた妻が、
3枚のパネルを作り、納めたのです。
かつての同級生の言葉のぬくもりが、
妻の心をとかしてくれたと、
私は、今でも、何度でも、
思い出すのです。
(2019.6.3 記) ※2019.1.19投稿を一部訂正
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